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6月21日

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(現在7月下旬に予定されているグループ展のための

絵を制作中のため、しばらくは制作中の絵の下図など

から更新させていただきます。あしからず)

 

ヴァレリー・アファナシエフのピアノコンサートに

行ってきました。

ベートーヴェンの後期ピアノソナタ3曲のプログラム。

アファナシエフは2003年の来日での同プログラムの

ライブCDが出ていて、独特の美意識がある名演として

私もよく聴いています。このCDを聴いていると、

この時の演奏会に行かなかったことが悔やまれるため

今回は非常に楽しみにしていました。

 

素晴らしいコンサートでした。

これほど余韻にこだわり、音楽として創り上げる

ピアニストは他にいない、と思いました。

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アファナシエフの演奏は総じてかなり遅いテンポで奏でられるのですが、それが(他のスローテンポで弾くピアニストの演奏と異なり、)退屈に聞こえない

のが不思議でした。 しかし今回、それは“余韻”が計算されたうえで確信を持って音楽が構築されているからだ、と実感しました。

静寂とピアノの減衰する音の特性をこよなく愛し、こだわり続けるピアニスト。

32番のアリエッタは期待どおり。おそらく19分くらいの演奏。特に中盤から後半が素晴らしかった。(グールドが退屈な部分として弾き飛ばすところ)

前半の変奏部分も微妙なニュアンスの与え方は素晴らしいのですが、変奏部分だけならツィメルマンのピアニズムのほうが好みに思えました。

これはコンサート1曲目の30番の第3楽章の変奏を聴いていたときにも思ったことですが、アファナシエフは“変奏”という、

同じ主題が様々に表情を変える魅力を弾くよりも、彼の好むメランコリックで余韻の残る音色で旋律を描く時のほうが、彼独特の美学が光る、

と思いました。

それを確信したのは、30番の後の31番の第3楽章の讃美歌のようなフーガの演奏を聴いたとき。鳥肌がたちました。

彼は速いパッセージも難なく弾きこなしていましたが、どう聴いても鍵盤を叩いて音を出し、旋律を描きつくして音楽を構築するよりも

出した音がどう消えていくか、に神経を研ぎ澄ましているので、音符で埋め尽くされたところ(余韻の残る余地のない)を弾く時は、

なんとなく嬉しくなさそうなのです。

(先月聴いた若き女性ピアニストのエヴシナとは真逆、といえそうです。どちらもそれぞれ素晴らしかったですが)

 

ほんのわずか、アファナシエフがこだわる静寂を乱すお客さんがいたのは少し残念でしたが、そんなことに惑わされずに演奏に集中し、

独特な美しさをもつ素晴らしい演奏をしてくれたアファナシエフに惜しみない拍手が送られていました。

 

追記:今回のことは、絵を描いている時もよく思うことです。若い人をはじめ、描けるようになって描くことが楽しくて仕方ない時は、

描くことに価値を置きがちで、つい描き過ぎでしまいますが、なにかの“図”を描くことで生まれる“地”について、

あるいは、攻めた色彩構成ばかりではなく、ある色を置くことで生まれる周辺の色の見え方の変化などに視点を向けて、

絵を構成するというところへ意識が拡大していくためには、いわゆる老成といわれるまでの経験値の積み重ねが必要なのかもしれません。